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知っておきたい日本の名劇作家



その活動は劇作家だけではなく、演出家、詩人や俳人、小説家など、文学界にも大きく貢献した日本の貴重な文化人たち。なかでも一時代を築き、演劇界の後世に与えた影響が非常に大きく、現在もその作品が上演され続けている人たち。2010年には4月に井上ひさし、7月につかこうへいと、戦後の演劇史を支えた2人が共に亡くなりました。演劇を知るためのキーパーソンであり、演劇史に残るカリスマ作家として、その名前は永久に輝き続けることでしょう。最近の演劇界では、作・演出を一人で行なう傾向にあり、劇作だけで勝負している作家は、ほとんどいないのが現状なのです。

三島由紀夫(1925~1970)

三島由紀夫(1925~1970)

みしま ゆきお。東京出身。小説家・劇作家・評論家・政治活動家など、誰もが知る戦後の日本文学界を代表する作家の一人です。小説では「仮面の告白」はもちろん、吉永小百合や山口百恵の主演で映画にもなった「潮騒」は、NHK朝の連続テレビ小説「あまちゃん」によって2013年にも改めてスポットが当たりました。

戯曲では、劇団四季が手掛ける「鹿鳴館」、1968年から美輪明宏(当時は丸山明宏)が演じて来た「黒蜥蜴」や、『近代能楽集』から「卒塔婆小町」「葵上」、また「サド侯爵夫人」などが、数多く上演されています。2011年には「サド侯爵夫人」と対を成すと言われる「わが友ヒットラー」の2作を"ミシマダブル"と題し、蜷川幸雄の演出で東山典之、生田斗真らが交互に演じ、話題になりました。同年、宮本亜門の演出により森田剛主演の「金閣寺」も上演されました。

唯美的な作風、美しい日本語の響き、言葉の中に隠されたレトリック、観念と叙情…。三島由紀夫の作品世界を体現するには、演出家や俳優は相当の覚悟を持って対峙し、臨みます。

寺山修司(1935~1983)

寺山修司(1935~1983)

てらやま しゅうじ。青森県出身。詩人、劇作家、歌人、演出家、映画監督、小説家、作詞家、脚本家、随筆家、俳人、評論家など、マルチな才能を発揮し、多くの文芸作品を残しています。

1967年、演劇実験室「天井桟敷」を結成し、草月アートセンターにおいて「青森県のせむし男」で旗揚げ。1969年に日本初のアングラ専用の劇場「天井桟敷館」を開館し、海外公演も積極的に行なうようになります。1975年、30時間市街劇「ノック」で杉並区という街全体を劇場に見立て、銭湯や空き地、区役所などで同時多発的に演劇を始め、市民からの苦情が殺到し、警察が介入した事件は今なお演劇界で語り継がれています。

演劇作品としては美輪明宏の主演で何度も上演された「毛皮のマリー」、蜷川幸雄の演出で藤原達也を世に出した「身毒丸」、評論集から映画にもなった「書を捨てよ、町へ出よう」ほか、「奴婢訓」、「レミング」、「青ひげ公の城」「百年の孤独」など。

1983年、47歳で寺山修司が亡くなり、天井桟敷は「レミング 壁抜け男」を最後に解散。その後は、寺山の片腕だったJ・A・シーザーが演劇実験室「万有引力」を設立し、公演を行ないました。

1982年まで行なっていた海外公演での評価も高く、1990年代からは詩などの作品を含め、寺山修司の世界が再評価され、静かなブームを呼びました。同時代を共にした美輪明宏や蜷川幸雄の舞台によって、寺山修司の魂は今なお受け継がれています。

つかこうへい(1948~2010)

つかこうへい(1948~2010)

つかこうへい。福岡県出身。劇作家、演出家、小説家。日本の現代演劇史を語る時、「つかこうへい以前・以後」と言われているほど、その登場と存在は衝撃的で、時代の大きな節目となった人です。1970年~1980年代初めにかけて、若者たちを熱狂させた「つかブーム」を巻き起こしました。作品は小説や演劇、また多くの映画の原作にもなっています。

慶應大学在学中に演劇活動を開始し、1971年の初戯曲『赤いベレー帽をあなたに』から始まり、1972年に早稲田大学系の劇団「暫(しばらく)」へ「郵便屋さんちょっと」、1973年に「初級革命講座・飛龍伝」、文学座のアトリエ(稽古場兼小劇場)で「熱海殺人事件」と、猛烈な勢いで次々と作品を書き下ろして初演しました。1974年に「熱海殺人事件」が当時最年少の23歳で岸田戯曲賞を受賞し、1976年、つか自身の演出で同戯曲を新宿・紀伊國屋ホールで上演。ここから人気がブレイク、一気に人気劇作家となって熱狂的な「つかブーム」が巻き起こります。

最小限の装置の空間で、早口でたたみこまれるような等身大のセリフ、突然響く大音量の音楽、派手な踊り…暗転の一切ないスピーディな展開で、物語が舞台上を疾走します。"口立て"と呼ばれるつか独特の演出法で、その作品世界は役者の魅力を加えながら体現され、観客席の緊張感も伴って、小空間にエネルギーが充満していきました。傷つけあう男女の空虚で孤独な心が、切なく暗い攻撃的な笑いの中で観る者の心に突き刺さり、新しい演劇との衝撃的な出会いに圧倒されました。

平田満、故・三浦洋一、風間杜夫、加藤健一、根岸季衣、阿部寛ら、つか演劇の洗礼を受けた多くの俳優たちが実力派の冠を得て、現在も活躍しています。また、観客席で観ていた、若きいのうえひでのりやマキノノゾミら今の演出家・作家たちも、つかの芝居を自分たちもやりたいと、次々に劇団を立ち上げ始めたのです。これは、まさに演劇界の革命でした。

1982年、 同年映画化された小説「蒲田行進曲」で第86回直木賞を受賞後、劇団「つかこうへい事務所」を解散し、一時執筆に専念します。

1989年に岸田今日子主演の「今日子」で演劇活動再開後は、1994年に行政の協力を得て東京都北区で「★☆北区つかこうへい劇団」、1996年には大分県で「大分市つかこうへい劇団」(2001年解散)を旗揚げし、プロデュース公演など、過去のヒット作の新バージョンを上演しながら精力的な活動を続けました。 享年62歳。

1986年に映画化された「熱海殺人事件」をはじめ、現在でも繰り返し上演されている作品として、「飛龍伝」「売春捜査官」「戦争で死ねなかったお父さんのために」「銀ちゃんが逝く」「広島に原爆を落とす日」「ストリッパー物語 」(原題:ヒモのはなし)など。ほかに「二代目はクリスチャン」や「リング・リング・リング」など、映画化された作品も多くあります。

井上ひさし(1934~2010)

井上ひさし(1934~2010)

いのうえ ひさし。山形県出身。小説家、劇作家、放送作家。日本劇作家協会理事、社団法人日本文藝家協会理事、社団法人日本ペンクラブ会長などを歴任しました。

上智大学在学中に、浅草フランス座でストリップショーの幕間にあるコントの台本を書き始め、多くのラジオドラマを書いて懸賞応募、賞金を稼いでいました。ここからNHKの放送作家となり、1960年に大学卒業後も数多くのラジオやテレビ番組を手掛けます。

1964年、児童文学者・山本護久と共同執筆したNHKの連続人形劇「ひょっこりひょうたん島」が5年間放映され、国民的人気番組になります。1969年、「ひょっこりひょうたん島」に声優で出演していた熊倉一雄が主宰する劇団テアトル・エコーに戯曲「日本人のへそ」を書き下ろし、演劇界にデビュー。本格的に戯曲を執筆、小説、エッセイの分野にも活動の場を広げて、 1972年にテアトル・エコーへの戯曲「道元の冒険」で岸田戯曲賞と芸術選奨新人賞、小説「手鎖心中」で直木賞を受賞します。

その後も精力的に執筆活動を続け、ベストセラーの「吉里吉里人」を始め、小説や戯曲で文学・演劇の各賞を受賞しています。1983年には、その芝居に対する思いが理想の形でできるように、自作の戯曲のみを上演するプロデュース集団"こまつ座"を創立。1984年に「頭痛肩こり樋口一葉」で旗揚げして以降、新作を次々と書き下ろし、再演や昔の作品も織り交ぜ、年平均4~6作品を全国で上演し続けています。

本格的な劇作家デビューとしての「日本人のへそ」から数えて40年、数多くの作品を残し、2009年に上演した新作「組曲虐殺」(演出:栗山民也)が遺作となりました。享年75歳。

自身で「遅筆堂」と名乗るほど原稿が遅いことで知られ、新作では役者をはじめ関係者はみな、不安と期待が入り混じった思いで原稿の到着を待っていました。「むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく ふかいことをゆかいに ゆかいなことをまじめに書くこと」。これが井上作品のテーマでした。

心に強く響くメッセージをユーモアで包んだ作品、テーマは重いのに軽やかで心地よい音楽が生かされた音楽劇、大笑いしながらも方言を取り入れた日本語表現の豊かさに感心した芝居…。そこにはきちんと人間が描かれていました。愛情を持った作家の目線がそこにありました。戦争をモチーフに日本のあるべき姿を描いた作品など、戦争を知らない世代がほとんどになった今、これらを超える作品に出会うことはできないかもしれません。でも、これら珠玉の作品がある限り、多くの演出家が新たな息吹を吹き込み、後世へと繋いでいってくれることでしょう。