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歌舞伎の歴史



日本を代表する伝統芸能のひとつ、歌舞伎。その歴史は長く400年以上前にさかのぼります。そもそも「かぶき」という言葉は、「傾く(かぶく)」からきていて、型破りなもの、並はずれているという意味です。ここでは、その歌舞伎の歴史を紐解いてみましょう。

女芸人が歌舞伎の原点

女芸人が歌舞伎の原点

始まりは、徳川家康が江戸幕府を開いたのと同じ1603年(慶長8年)、「出雲の阿国」一座の興行だとされています。阿国は、出雲大社の巫女と言われますが、出生は謎の女芸人。庶民のために、奇抜な風体で踊る「かぶき踊り」を披露していました。そして、京にのぼり、北野神社の能舞台で「かぶき踊り」を披露したのが1603年。庶民を熱狂させました。

ここに遊女たちが加わって流行したのが「遊女歌舞伎」。しかし、風紀上の問題から幕府がこれを禁止。すると、代わって登場したのが、女装した少年たちが演じる「若衆歌舞伎」。美少年の美しい歌と踊りは人気を博しましたが、これもまた風紀を乱すと禁止。美少年の色気が問題ならばと、次に出てきたのは、成人男子の「野郎歌舞伎」。これが今日の歌舞伎の原型です。

江戸と上方で2大スターがブレイク

江戸と上方で2大スターがブレイク

庶民文化が全盛の元禄時代(1688年~1704年)、歌舞伎は江戸と上方で大きく発展、幕府公認の劇場も誕生しました。江戸では市川團十郎、上方では坂田藤十郎と、2大スターが誕生。初代・團十郎は派手な化粧で主人公が悪役をやっつける「荒事(あらごと)」、藤十郎は美しい女方で色模様を描いた「和事(わごと)」を確立し、大ヒットしました。

そして1715年、近松門左衛門が浄瑠璃の人気狂言を歌舞伎バージョンで上演し、「義太夫狂言(ぎだゆうきょうげん)が確立。人気作が次々歌舞伎化され、狂言作者の地位も確立しました。

町民文化とともに発展した歌舞伎

町民文化とともに発展した歌舞伎

元禄のころは、女方(おんながた)による舞踊「所作事(しょさごと)」も盛んに上演され、初代・中村富十郎によって、女方の所作事は完成されたと言われています。

舞踊の発展とともに、長唄、常磐津など伴奏音楽も充実、男役の立役(たちやく)も「所作事」を踊るようになりました。また1人で何役も踊り抜く「変化舞踊」も大流行しました。

そして、町人文化が花開いた1800年代の文化・文政年間には、鶴屋南北が登場。庶民の好みに応じて、幽霊の出る奇っ怪な話、殺し場・濡れ場ありの残酷劇を次々と書き、舞台機構や早替りを駆使した演出で上演。今も上演される「四谷怪談」は鶴屋南北の代表作となっています。

この時期には5代目松本幸四郎、3代目尾上菊五郎ら名優も数々登場、このころ七代目市川團十郎が得意演目を並べた「歌舞伎十八番」を制定。これは今も市川家に引き継がれています。

水野忠邦が行なった「天保の改革」のころ(1830~1843年)は、華美なものは禁止され歌舞伎も失速しましたが、忠邦の失脚により再び人気を盛り返していきます。そこで登場する作家が、河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)です。泥棒をヒーローとする「白浪(しらなみ)もの」をはじめ、粋のいいセリフで多くの人気作を生みました。

時代と共に近代化 そして日本の伝統へ

時代と共に近代化 そして日本の伝統へ

明治維新を迎えて、時代の風潮と共に歌舞伎も近代化。天皇の御前で上演される「天覧劇」も行なわれ、歌舞伎役者の地位は飛躍的に向上しました。

大正時代にかけては、岡本綺堂ら欧米の演劇を受けた作者による作品も生まれ、演技や演出も近代化した「新歌舞伎」が登場。同時に古典歌舞伎も復活上演され、継承されていきます。

昭和に入ると松竹が歌舞伎の独占化をほぼ達成。

戦争に入ると劇場が焼け、戦後は進駐軍の命令で衰退、映画や新劇に出演する歌舞伎俳優が相次ぎました。

が、次第に歌舞伎俳優の自主上演も行なわれ、テレビ放送もスタート、歌舞伎の舞台中継も行われ、昭和30年代には海外での歌舞伎公演も実現しました。

海外からの評判やメディアの発達で歌舞伎俳優のブームも巻き起こり、昭和40年(1965年)には、歌舞伎は無形文化財として登録。また、2009年にはユネスコの無形文化遺産に登録されました。現在は新しいスタイルの歌舞伎も誕生し、老若男女、通から初心者まで、幅広い客層から愛され、世界に誇る日本の文化となっています。