ご希望の劇場・ホール・会館情報を無料で検索できます。

施設検索/ホームメイト・リサーチTOP

ホームメイト劇場・ホール・会館リサーチ

劇場・ホール・会館情報

落語の歴史



古くから日本に伝わる伝統的な話芸、落語。現在も多くの人に愛される落語の成り立ちと歴史を、紐解いていきます。

落語の始まり

落語の始まり

落語の始まりは、その「落語作品」で捉えるか、「落語家」で捉えるか、によります。

おもしろい落ちがあって笑いを取る「落咄(おとしばなし)」は戦国時代が源。その頃の武将は文人・茶人などを「御伽衆(おとぎしゅう)」として抱え、いろいろな話をさせました。そこで、比較的短い滑稽な話もさせていたと言います。

安土桃山時代の僧・安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)は、豊臣秀吉や諸大名の前で話をしたと言われ、説教の中におもしろい話を盛り込んだそうです。その著書「醒睡笑(せいすいしょう)」の中には、御伽衆の話を洗練した、現代の落語の原話と思われるものが数多くあるため、策伝を「落語の祖」と位置づける人もいます。

ただし、説教が第一目的であり、不特定多数の客の前で演じたわけではないので、「落語家の祖」とは言えないという見方が強いです。

徳川綱吉の元禄文化の時代、ほぼ同時期に京都・大阪・江戸の三都に、滑稽な話を聴かせる専業者が現れます。

江戸落語の歴史

江戸落語の歴史

元禄時代、鹿野武左衛門(しかのぶざえもん)は、諸家に招かれ、代価を得て話を聞かせました。この鹿野武左衛門が、「江戸落語の祖」と呼ばれています。

鹿野武左衛門は、1693年にデマから発した騒動による筆禍事件で罪を問われ、その影響により江戸落語は100年間も衰退。事件からおよそ100年後の天明・寛政(1781~1800)のころ、大工の棟梁でありながら多彩な文芸活動を展開した烏亭鳶馬(うていえんば)が1786年に“咄の会”を催し、その後、正月の“咄初め”や毎月の“定会(じょうかい)”など定期的に開催されました。料理屋や自宅に人を集め、狂歌人や趣味人が自作の落語や狂歌を持ち寄って披露しあう会で、寛政の改革で“定会”は禁じられるものの“咄初め”は鳶馬の没年まで継続。この“咄の会”などの中から、初代三遊亭円生、初代三笑亭可楽など、落語の専門職が現れます。そのため烏亭鳶馬が「江戸落語中興の祖」と呼ばれています。

職業的な落語家は、初代三笑亭可楽が1798年に寄席興行を行なっており、このあたりが職業落語家のはじまりと言われています。可楽は櫛職人から落語家へ。三題咄や謎解きが好評。同じ頃、鳴物入りの芝居咄の祖・初代三遊亭円生も活動を開始、遅れて文化期(1804~17)には、怪談咄が売り物の初代林屋正蔵も登場します。

寄席もこの文化年間に盛んとなり、民家の二階など、町内に一つは寄席があったとか。両国に林屋の席など、落語家が自ら経営し出演する本格的な定席も誕生しました。文化期から天保の改革直前まで、落語は大いに発展、職業的落語家も数多く登場し、興行形態も整っていきました。

天保の改革で江戸落語は大打撃を受け、江戸市中に200軒以上あった寄席が24軒を残して取りつぶされましたが、水野忠邦失脚後すぐに盛り返し、安政期(1854~60)には約300席ほどになったそうです。

その後、幕末に人情咄の全盛期を迎え、また滑稽と人情を併せ持つ咄も成熟、今日の落語に近づいて行きました。

幕末から明治にかけて活躍したのが、歴史的名人・三遊亭圓朝。その後、四代目橘家圓喬、初代三遊亭圓右、三代目柳家小さんの時代が大正時代まで続き、20世紀半ばから昭和の名人、八代目桂文楽、五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭圓生の三人が江戸落語のトップを占めました。100年に渡る"名人の世紀"を経て、現在の落語へと繋がって行きます。

上方落語の歴史

上方落語の歴史

江戸・元禄時代、京都に露の五郎兵衛(つゆのごろべえ)、大坂に米沢彦八(よねざわひこはち)が登場します。二人とも、大道の辻咄の形態が中心でした。五郎兵衛は、1670年代から京都の北野天神や四条河原でよしず張り(すだれのようなもの)の小屋がけで、小咄や謎解きで人気を集め、彦八は生國魂(いくたま)神社界隈で野天の小屋掛けでにぎやかに演じ、人気を博していました。明治初期まで京都落語と大坂落語は別の流れににあったようですが、京都と大坂の交流はさかんであり、「京都落語の祖」露の五郎兵衛、「大坂落語の祖」米沢彦八の二人を「上方落語の祖」と呼んでいます。

辻咄は100年を経て衰退、屋内の一定の場所で一定期間、入場料を取って聴衆を集める“寄席”に代わって行きます。大坂にも“咄の会”があり、素人噺家の伝統が強かったのですが、1794年には初代桂文治が活躍を始めたことにより、職業科化、専門化が進みました。文治は芝居咄を得意とし、大坂坐摩社(いかすり神社)の境内で、自分の寄席を持ち席亭となります。ここから現在へ続く桂の門流が繁栄していきました。

桂は文化・文政時代に活躍した松富久亭松竹(しょうふくていしょうちく)が始まりとされ、松竹の弟子・初代吾竹から“笑福亭”と表記が改められました。天保年間に、江戸の林屋(のちの林家)の一門・林屋菊蔵が上方へ上がり、林家正三、さらに菊枝を名乗り、“林家”一派を成しました。また江戸時代末期の役者・立川伴五郎の息子・三五郎を祖とする上方の“立川”。この4つを「上方四派」と呼び、名前と芸が現代まで受け継がれています。幕末には、落語家と落語作品のもとが整っていきました。

明治時代には桂派と浪花三友派の二大勢力がしのぎを削って落語界は隆盛、その後、諸派乱立の大正時代を経て、吉本興業が演芸界を統一し、爆笑王と呼ばれた初代桂春団治ら活躍しました。が、昭和に入り漫才の人気に押され衰退、戦後、五代目笑福亭松鶴や四代目桂米団治ら「楽語荘」のメンバーが上方落語の保存と復興に尽力します。が、大看板たちが相次いでこの世を去り、1953年に二代目桂春団治が亡くなった時、上方落語は滅んだと新聞に書かれるまでに。

1957年に18名で「上方落語協会」が発足、その後、若手四人が相次いで大名跡を襲名、意志を継いで徐々に活動の場を広げていきます。三代目桂春団治、六代目笑福亭松鶴、五代目桂文枝・三代目桂米朝が上方落語の四天王と呼ばれる大看板となって活躍。1970年に会員は50名を超え、若手たちのマスコミでの活躍により落語ブームが到来するなど、現在の上方落語界の基盤を築き上げました。

1990年、六代目松鶴の遺志を継ぎ、仁鶴を中心にした笑福亭一門が、生國魂神社に上方落語の祖・初代米沢彦八の碑を六代目の命日9月5日に建立。翌年から9月5日に近い土日曜日に、神社境内で上方落語協会主催の「彦八まつり」が始まり、初秋の風物詩として毎年賑やかに開催されている。

五郎兵衛の碑は1999年、露の五郎兵衛(当時は露の五郎 2009年没)らによって、ゆかりの京都北野天満宮境内に建立されました。