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お笑いの代名詞、漫才の歴史



「お笑い」と言えば漫才。「漫才」は、「漫才」と定着するまでに「萬歳」「万歳」「万才」などさまざまに表記されてきました。ここでは、その変遷から、関西のお笑いを中心に歴史をたどっていきます。

「万歳」の誕生から吉本興業の始まり

「万歳」の誕生から吉本興業の始まり

「万歳」は平安時代後期より記録が見られ、宮中や大名宅などで新年を祝う言祝(ことほぎ)の芸能「千秋万歳(せんずまんざい)」のこと。後に民家にも広がり、民家を回るものは室町末期に「万歳楽」、近世に「万歳」と呼ばれていました。大和万歳、三河万歳など、現在も各地で継承されています。

万歳は、扇を持って舞いながらことほぐ主役の太夫と、鼓を持って笑いを受け持つ才蔵の2人連れが基本。その後、万歳は笑いを主とする芸能に変化し、才蔵が主役になっていきました。現在の漫才で言えば"ツッコミ"が太夫、才蔵が"ボケ"。扇もその後、才蔵の頭を張る小道具に変化します。

万才(※「万歳」の大衆芸能への変化により、便宜上、以降は「万才」と表記)は江戸時代にはすでに生玉神社境内で興行化していました。万才の興行化で成功したのは、明治時代の末、大阪千日前に出演した江州音頭の音頭取り玉子屋円辰です。卵の売買から音頭取りとなり、軽口や俄(にわか、即興芝居など)で人気の名古屋万歳を習って融合。謎かけや物まねなどを取り込み、音頭と笑いが一体となる演芸を誕生させました。

万才は、千秋万歳を継承した太夫・才蔵の人物構成を基本として、江州音頭に笑いを取り入れて作りあげられました。"漫才の祖"とも言われる円辰の門下をたどると、ミスワカナ、夢路いとし・喜味こいしに繋がっていきます。

大衆芸能は明治時代から、京都の新京極、大阪の道頓堀や千日前、神戸の新開地など盛り場で発展。大阪の寄席は落語が主流でしたが、明治初期に初代桂文枝門下の分裂が端を発し、演芸界の潮流が変わっていきます。

明治45年(1912年)、吉本吉兵衛(のちの泰三)・せい夫妻が天満天神裏で「第二文芸館」の経営を始めます。落語だけでなく、色物(踊り、紙切り、女道楽など)などを入れた娯楽性の強いものをかけて人気を博します。これが吉本興業の原点。大正7年(1918年)、万才も興行演目に加わります。大正6年(1917年)吉本せいの実弟・正之助が興行部に入り、大阪の寄席と芸人を次々と傘下におさめ、大正11年(1922年)、演芸王国の基礎を築き上げました。

エンタツ・アチャコの時代から2大興行会社の時代へ

エンタツ・アチャコの時代から2大興行会社の時代へ

昭和初期に人気を集めたのは、初代・桂春団治とエンタツ・アチャコ。エンタツ・アチャコはたった4年のコンビでしたが、後世に大きな影響を与えました。三味線も扇も持たず、芝居もせず、自然体の会話だけで笑いを取る斬新な舞台。背広を着て舞台に立った最初の演者であり、「きみ」「ぼく」と呼び合いました。

仕掛け人は、近代漫才の父と呼ばれる東京大学卒の漫才作家・秋田實。それまでは卑猥で低級な笑いだった話の内容を、家族で楽しめる「無邪気な笑い」に変えたのです。昭和8年(1933年)に誕生した伝説の「早慶戦」は、レコードとラジオという新しいメディアに乗り、エンタツ・アチャコの人気は全国区になりました。

同年、吉本興業の橋本鐡彦総括部長の提案で、表記が「漫才」に統一されます。また、エンタツ・アチャコと並び、人気を呼んだ男女コンビがミスワカナ・玉松一郎。男性上位の社会の中で女性上位漫才の型を初めて作り、ミヤコ蝶々・南都雄二、宮川大助・花子らが継承しています。

エンタツ・アチャコの近代漫才を作った時代は、映画がトーキーとなり、大衆娯楽の第一人気となった時代でした。歌舞伎や新派の興行会社だった松竹が、映画制作と配給に乗り出し、新設した新興キネマ演芸部で演芸興行を開始。東宝と組んだ吉本に対抗し、昭和14年(1939年)、大量の芸人を吉本から引き抜く事件が勃発します。

松竹から独立した新興演芸と吉本興業、芸人はほとんどどちらかに組み込まれ、大阪には、拮抗し対立する2大興行会社が誕生しました。

第二次世界大戦以後から現在の「MANZAI」へ

第二次世界大戦以後から現在の「MANZAI」へ

2大興行会社のうち吉本興業は、戦災により、ほとんどの寄席を失いました。吉本興業は演芸から撤退、映画興行を主軸にした経営に移行します。かたや松竹は、昭和22年(1947年)に戦災を逃れた道頓堀の映画館を寄席としていち早く開場。戦後初の寄席・戎橋松竹に芸人が集中し、戦後の演芸復興が始まりました。NHKをはじめ民放ラジオも開局し、お笑い番組が次々と作られ大人気になりました。

昭和33年(1958年)には千日劇場が開場。続いて松竹は、洋画の映画館だった道頓堀の角座を、1000席を超えるマンモス寄席として開場します。角座は芸人たちのひのき舞台となります。昭和31年(1956年)に歌謡ショーでデビューしていた"かしまし娘"も、角座で大きな人気を博していました。

昭和34年(1959年)、吉本興業が演芸興行を再開します。が、所属芸人は花菱アチャコだけでした。民放テレビ局が次々と開局、劇場中継やお笑い番組が誕生する中、吉本興業は芸人不足を埋めるため、テレビ局と提携する方針を取ります。新人をテレビでスターにさせ、劇場へ出演させて観客を呼び、より人気を高めるという方法で成功したのです。

昭和40年代半ばには民放ラジオの深夜放送をきっかけに、上方落語ブームが到来。笑福亭仁鶴や桂三枝ら若手落語家の人気が急上昇しました。ところが全国から演芸場に押し掛けた観客は、昭和45年(1970年)の大阪万博をピークに去り、漫才は急激に低迷。昭和50年代には演芸場が次々と閉館しました。この時、漫才界で活躍していたのは昭和41年にコンビを組んだ横山やすし・西川きよし。ボケとツッコミが交互に入れ換わる、スピード感あふれる新たなしゃべくり漫才で爆笑を得ていました。

漫才の低迷を打開しようと、漫才の若手演者と漫才作家を養成する"笑の会"が発足。相談役に秋田實、その後、村長として藤本義一が引き継ぎ、昭和53年(1978年)に東京・紀伊國屋ホールで公演。翌年の公演で文化庁芸術祭の大衆芸能部門で優秀賞を受賞し、この東京公演から漫才ブームへと繋がるきっかけが生まれました。

「漫才」から「MANZAI」へ。昭和55年(1980年)から2年間、テレビに乗って怒涛のような漫才ブームが起き、テレビはお笑い番組一色に。テレビと繋がり、お笑いを提供してきた吉本興業は、昭和57年(1982年)、吉本総合芸能学院(NSC)を設立。ダウンタウンらを世に送り出し、全国を席巻していきます。

長く続いた師弟制度は影をひそめ、漫才の会話のスピードはより速く、ネタもコント形式のものなど、低年齢化する観客に向けて多様な笑いに細分化され始めます。

再び全国的な落語ブームが到来し、小規模な漫才ブームを経て、吉本興業は100周年を迎えました。21世紀の漫才は、これからも時代と共に変化していくでしょう。